Archive for category 2.益子焼・陶芸

向山 文也 陶芸家

釉彩の技

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向山 文也氏
独自の象嵌釉彩による紋様作品。

緻密なロクロを中心に成形した端正なかたち。

あたたかみのある象嵌紋様と、 8種類の釉薬と酸化金属による、 有機的な色彩をみせる釉彩。

魅力あふれる象嵌釉彩の 制作工程を工房に訪ね、 その技を見せていただきました。

向山 文也 略歴
1960年 東京生まれ
1983年 日本大学法学部卒業
1884年 京都府立陶工訓練校卒業
萩焼窯元十五代坂倉新兵衛に師事
1985年 滋賀県膳所焼窯元にて作陶
1988年 東京青山栗田クラフト陶芸教室講師
1990年 栃木県益子町に工房M’s Placeを設立
1993年 栃木県烏山町に工房を移築
1994年 象嵌釉彩波状紋壺 宮内庁買上
2000年 「千年の扉」展出品 於栃木県美術館
2005年 現代茶陶展 織部銀賞

【入選】
日本クラフト展 陶芸ビエンナーレ
伝統工芸新作展 現代陶芸〔めん鉢〕大賞展
益子陶芸展 北関東陶芸展
現代茶陶展

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成形 紋を描き象嵌釉彩(ぞうがんゆうさい)するため、表面が滑らかになるように削ります。

高台を削り、高台内に「ふ」のマークを陶印します。「ふ」マークは象嵌釉彩作品に用い、「文」マークは白化粧作品に用います。

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境紋釉彩 境紋
描 き
下描き
高台や表面を削り成形した直後の茶碗を6等分、8等分などの分割線を書いた手ロクロに置き、紋様を描く目安を筆ペンを使って下書きします。


描き
紋様の基本図形となる円形と小さな丸を、手近な道具を使い、化粧土を象嵌する溝を掘りこみます。

この赤い瓶の蓋は、大きさがちょうどよく、曲面にもフィットするので重宝です。この蓋の丸の間には、パイプを使って小さな丸の溝を掘り空間を埋めます。


仕上
象嵌をきれいに仕上げるため、鉋(かんな)を使ってバリをとります。

さらに溝のエッジを滑らかにし、適度な深さにするため、キリを使って溝を成形します

紋様描き
象嵌の線が直線だけで単調にならないように、裁縫用のルレットを使いミシン目の縦線、横線、斜め線などを組み合わせて様々な紋様を刻みます。

紋様をどのように入れるかは、隣り合わせや反対側をイメージしながら決めていきます。

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象嵌
化粧
象嵌紋様描きで彫った溝やミシン目に対して、天草陶石単味の化粧土を、刷毛を使って軽くたたくような感じで象嵌(埋め込み)します。

象嵌
仕上 化粧土が少し乾燥したら、手ですり込みます。 同時に余分な化粧土を落とした後、蚊帳(かや)布をこすりつけきれいに仕上げます。
以前は鉋(かんな)を使っていましたが、蚊帳布を使ってきれいに仕上げます。大きな蚊帳をご近所からいただきましたのでしばらくは使えます。

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ロウ掛け

全体
 釉掛け

素焼 紋様の外側に全体の釉薬をかけるため、紋様上のロウ抜きを行います。ロウ掛けをする前に撥水材を使って、紋様のエッジと釉薬部分をきれいに掛け分け、ロウを塗ります。
この茶碗は白マット釉を全体にずぶがけ掛けした後、750℃程度で素焼してロウを飛ばします。

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釉彩 紋様マスキング
素焼しロウが飛んだ状態で、モザイク状の紋様に釉薬を掛けていくために、象嵌部分には釉薬がかからないよう、象嵌の上を撥水材(はっすいざい)を使ってなぞります。

釉彩
釉彩には8種類(8色)の釉薬を掛け分けます。
1つの紋様には2種類の釉薬をさしますので、紋様が4面あれば8色の釉を1回づつ使い、6面であれば8種類の釉薬を合計12回使うという具合にパターンを決めています。

どこに何をさすかは全体のバランスを考えながら、その場で決めていきます。

釉彩は、白マット釉、チタン釉、黒マット釉、鉄釉、鉄マット釉と、酸化金属の酸化チタン、鉄(ベンガラ)、ゴスの8種類の釉薬と酸化金属を使います。

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本焼 写真の紋様は違いますが、使ってる釉薬は同じものの面です。 焼成前と焼成後を見比べると色合いの変化、大きさの変化がわかります。

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●象嵌釉彩はどのように生まれた?

もともと釉薬を掛け分けて器を作っていました。
掛け分けといっても釉薬が交じり合うのではなく、
それぞれの釉薬がはっきりとモザイク状になるように
意識して制作していました。

茨城県大洗海岸に昇る初日の出と、それを映す波しぶきを見たのですが、
このときの強い印象が、波状紋のモチーフとなりました。
太陽の「黄」、波しぶきの「白」、海の「黒」を
表現してみたくなったのです。

私にとっての象嵌は、その技法を用いることが目的ではなく、
釉薬を紋様として描き分けるための区切りを鮮明にする手段となっています。

この「太陽」、「波しぶき」と「海」を、釉薬を用いて描く釉彩と、
それぞれをきっちりと分離するための象嵌を組み合わせることで、
象嵌釉彩波状紋が生まれました。

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●今後はどのような方向に?

波状紋をはじめ、
バリエーションとして幾何学的な境紋や、
干支や季節を図案化したものなどを作っています。

もっともっといろいろなことができると考えています。
象嵌釉彩は好きですし、今後もこれを拡げていきたいのです。

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●お客さまへのメッセージ

とにかく使ってみていただきたいです。

湯のみひとつ、作家ものですと数千円からするのですが、
100円ショップに行けば、ワンコインで買うことができます。
日常使うもので、割れちゃうものだからそれでいい。
といこともあると思います。

食事は毎日のことだからこそ、気に入った器を使うということで、
よりおいしくごはんをいただくということもあるでしょう。

家庭の中に丹念に手作りされた器があれば、
壊れるものだからこそ、
大事に使う気持ちが生まれるのではないかと思うのです。

器にお金をかけるということは贅沢かもしれませんが、
大事にしたいものだと思えば、丁寧に扱うはずだし、
それを見ている子供は、大事なものの扱い方というのか、
きちんとした所作みたいなものが、自然と身に着くのではないでしょうか。

丹念に作られたもので、
暮らしに彩と、ものを大事にする心を持っていただけるような、
そんな器づくりができるといいなと思います。

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益子町役場

益子やを立ち上げるにあたり、益子焼の産業概況を調べるため、資料を探しました。

まずは商工会議所に聞いてみようと思い、ウェブで検索した「益子町商工会」に電話しました。益子の窯業関係事業者数や売上の推移を調べたいと告げたら、即座に「商工会にはないので、益子町役場に問い合わせみてください」とのこと。

少し落胆しましたが、即答のおかげで時間と電話代の消費が最小限だったので、「教えていただきありがとうございます」という気持ちで、礼を言って受話器を置きました。

ウェブで検索した益子町役場ページにある総務課に電話し、用件を話したら、電話口の女性が産業観光課に取り次いでくれました。

産業観光課の男性が電話口に出たので、用件を述べました。
即座に「最新版ではないが、前回調査分があります。要望の全てではないが、関係ありそうな資料を見繕ってFAXします」という返答でした。

「相手は役所だから、今日中に届けば御の字だな」と思っていると、10分も経たないうちにFAXが動き始めました。

A4版で8枚になる資料は、バブル期からの益子町窯業の推移をみることができ、興味深いものです。

益子町役場の対応はありがたいものでした。
先入観はほんとに当てになりません。

 

 

興味のある数字をまとめたものが右の通りです。

昭和61年(1986年)から3年おきに平成16年(2004年)まで調査した益子町窯業の動向が示された資料です。
次回は2007年度統計になるという訳ですから、現状では最新版です。

ここに挙げたアイテムのほかに陶土使用量、経営形態(個人・株式・有限会社)別事業所数、会社役職ごとの従業者数、売上額別事業者数、販売先地域(町内、県内、関東、関西・・・、海外)割合別事業者数などの年度推移があります。

 

 

サンキュー
益子町役場 http://www.town.mashiko.tochigi.jp/

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陶器 須恵器

須恵器 
すえき

出典:平凡社

青灰色の,堅く焼きしまった土器。中国灰陶の系譜をひき,直接には朝鮮伽謂(かや)地方(加羅)の陶質土器の系統に属する。5世紀中ごろ(古墳時代中期)前後に,伽謂地方から陶工集団が渡来して生産を開始した。大阪陶邑(すえむら)窯に始まり(陶邑古窯址群)(図),生産地はやがて東海,四国,九州などの各地へ拡散していく。奈良~平安時代には〈陶器〉と表したが,釉薬をかけた陶器との混乱をさけ,考古学では須恵器と書き,〈すえのうつわ〉ともいう。
 須恵器の成形法は,粘土紐積上げが基本である。器形の大小にかかわらず,まず粘土紐を積み上げて原型をつくり,その後,叩きや削りの技法を用いて形態を整え,仕上げの段階にいたって轆轤(ろくろ)を用い,調整する。轆轤の水びき技法が採用されるのは,中世末の磁器生産開始の際であり,須恵器,灰釉・緑釉陶器,中世陶器は,いずれも粘土紐積上げの成形法を基本とし,轆轤の使用は成形の最終段階である仕上げの段階に限られていた。
 須恵器は,窯を用いて焼成した日本最初のやきものである。縄文・弥生土器,土師器(はじき)などの酸化炎焼成による赤焼きの土器に対して,須恵器は窯内で還元炎焼成された。須恵器の窯は,焚口から煙出しまで原則としてひとつながりのトンネル状を呈し,一般に窖窯(あながま)とよぶ。全長8~10m,床(最大)幅2~3m,天井(垂直)高1.5m前後の大きさを標準とし,時代や地方によって若干の差異がある。床面傾斜については,ほぼ水平のものから40度前後の急傾斜のものまでさまざまだが,構造上の基本は同じであり,床面傾斜角をもって登り窯,平窯などとよびわけた過去の用語は避けたい。江戸時代から明治にかけて,須恵器は行基(ぎようき)焼,祝部(いわいべ)土器などとよばれ一部の文人,茶人間で関心をよんだが,学術研究の対象として取り上げるようになったのは大正以後である。器形,用途論に始まった研究も,近年は年代や生産流通などの問題に対する考古学的研究の資料として,本格的な取組みがなされるようになった。
 須恵器はその用途から,貯蔵,供膳(きようぜん),調理などの日用品と,葬祭供献用との二つに大別できる。器形は,壺,瓶,甕,鉢,杯(つき)(坏),高杯(たかつき),盤・皿などの種類があり,形態の大小や口頸部の変化などに対応してさらに細分されている。古墳時代の須恵器は,器形の大半が葬祭供献用に属し,飛鳥・奈良・平安時代には日用品が大多数を占めるようになる。
 大阪陶邑窯を中心に始まった須恵器生産は,数十年の間に東は東北の一部から西は北九州に及ぶ各地へ波及したが,初期の須恵器は器形の組合せや個々の器形の形態に伽謂地方の陶質土器と共通する点が多い。また,伍形壺や耳付四足盤など朝鮮陶質土器には認められるが,その後の須恵器にはみられない特殊な器形があり,陶邑窯と朝鮮陶質土器との密接な関係がわかる。生産地が拡散し,各地で須恵器生産が行われるようになった頃,器形の種類,組合せ,形態などが定型化し,以後日本の陶質土器として変遷を遂げていく。この須恵器の定型化する時期は,ほぼ5世紀末ごろとみられる。
 6世紀を迎える頃,各地に群集墳が出現する。群集墳の形成,盛行に伴い,副葬品としての須恵器に対する需要は増大し,生産地の増加や量産の傾向が強まる。生産工程のなかで,極力仕上げの技法を省略するため,全般に製品は粗略となる。また,高杯の脚部や樹(はそう)の口頸部が発達し,葬祭供献用としての装飾的な傾向が著しくなる。群集墳盛期の樹は,口頸部が異常に長大化し,逆に体部は極端に小型化して,容器としての機能をまったく失い,供献用の仮器としての役目を果たすにすぎなくなる。さらにこの頃,装飾付脚付壺など供献用の大型器形も盛んに生産されるようになる。
 飛鳥時代に入ると,新たな政治体制の下で宮廷儀礼の形式が定着し,やがてそれは地方へ波及し,さらには官僚貴族の生活にまで浸透していくが,須恵器もそれに伴って大きな変化を遂げる。器形の種類は盤・皿類,瓶などの供膳用が主体となり,古墳副葬用として盛行した高杯や樹は急減あるいは消滅する。このほか,仏教に関連した鉄鉢形の器形や浄瓶,水瓶,それに陶硯などが現れるのも,新しい時代の到来を反映している。奈良時代には,地方官衙の整備や国分寺の造営などに伴い,須恵器生産地はさらに増加し,旧一国に1~2ヵ所の生産地が現れる。
 しかし奈良時代の末期には灰釉・緑釉陶器の生産が始まり,その後中国からの輸入陶磁器も徐々に増加する動向の中で,須恵器生産はようやく衰退のきざしを見せる。平安時代に入って,灰釉・緑釉陶器の供給が盛んな畿内中枢部では,須恵器の器形は甕,瓶子などに限られるようになり,各種供膳用の器形は灰釉・緑釉陶器に代る。平安後期に入ると,輸入陶磁器が爆発的に増え,須恵器生産はまったく衰微していく。一方,各地方の須恵器生産は,平安時代に入ってもなお盛んであったが,やがて東北地方の須恵系土器や東海地方の山茶碗(やまちやわん)など,特色ある陶質土器の出現によって衰退する。須恵器の系譜をひくやきものは,中世まで生産されるが,岡山の亀山焼や能登の珠洲(すず)焼などはその類に属する。⇒瓷器(しき)∥新羅土器            田辺 昭三

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引出物 引き出物

引出物 
ひきでもの

出典:平凡社

宴会に当たって招待した客に主人から贈る物。〈ひきいでもの〉ともいう。古くからの習俗であるが,《江家次第》の大臣家大痢に〈引出物 馬各二疋〉とあるように,平安中期以降の貴族たちの大痢に当たっては,ふつう馬が引き進められたが,鷹や犬,あるいは衣類も用いられている。武家の場合,源頼朝が1184年(元暦1)平頼盛を招待したとき,刀剣,砂金,馬を贈っており,刀などの武具がこれに加わる。こうした引出物とされた物からみて,この行為は本来,みずからの分身ともいうべき動物,物品を贈ることによって,共食により強められた人と人との関係を,さらに長く保とうとしたものと思われる。また貴人を迎え,3日間にわたって痢宴を行う三日痢,三日厨(みつかくりや)の慣習もひじょうに古くさかのぼるものと思われるが,そのさいにも引出物が贈られた。《今昔物語集》の〈芋粥〉において,五位を迎えた利仁将軍が,綾,絹,綿,馬,牛を贈ったのもその例になるが,荘園公領制下,検注,勧農,収納のために下ってくる預所(あずかりどころ)などを迎える三日厨のさいの引出物は,公事(くじ)として現地の人の負担とされた。1190年(建久1)備後国大田荘では,郡司,預所に対する一任一度の引出物として,下司たちが1人別6丈布3反を負担し,1239年(延応1)伊予国弓削島(ゆげしま)荘でも,預所に対し,3年に1度の引出物として布1反が在家(ざいけ)別に賦課され,鎌倉後期,それは名(みよう)別の公事になっている。《沙石集》には,孔子(くじ)によって相手を定め,引出物をさせると,身の災いを免れうるという俗信の話が収められており,引出物の呪術的な効果が,なお期待されていたことを知りうる。しかし中世後期以降,それは通常の贈物ととくに変わらぬものとなっていったと思われ,戦国期の武将たちの間で行われた贈答品は,馬や鷹,太刀や弓矢等の武具一式など,鎌倉時代の引出物と同じものを基本とし,金,銭や扇,また鶴,白鳥,雁,鮭,別,鯉の魚鳥や,菜,昆布などの物産が,それに加えて用いられている。     網野 善彦
[民俗]  一般には引物(ひきもの)ともいい,特に土産(みやげ)にもたせるため膳に添えて出す肴や菓子の類を呼ぶ。今日ではことに婚礼披露の際の贈物に対していう場合が多く,慶事の品のようにみられがちであるが,法事などに出される土産の品も引出物の一つである。祝儀(しゆうぎ)や被物(かずけもの)との区別もあいまいであるが,引出物は痢宴に伴った贈物であり,菓子類など食べ物が多いのも,これを持ち帰らせてその家族などにも共食の効果を広げようとしたところに祝儀や被物との違いがある。⇒贈物         岩本 通弥

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贈物 贈り物 ギフト

贈物 
おくりもの

出典:平凡社

他人に無償で贈り与える金銭,物品のことを総称するが,日本では中世までは下位の者に対して下賜されるもののみを贈物と称し,上位の者へ進上されるものは進物といって区別した。近世以降この区別はあいまいになったが,今日でも進物には上位の者への献上品といった感覚が残っている。貢物も献上品である。これに対し地位にかかわりなく相手への援助を旨とする贈物は見舞と称される。また旅の帰りや訪問など人の移動に伴う贈物が土産(みやげ)であり,このほか祝福や感謝の印としての御祝や御礼など,日本の贈物には状況に応じて名目の区別がある。
 贈物をする習慣は古今東西を問わず広く存在する行為であるが,ヨーロッパなどでは歴史的に都市の発達した中世以降,贈与慣行は貨幣経済に駆逐され衰退していったといわれている。だが日本では貨幣経済の発展とも併存し,中世には武士の間で八朔(はつさく)の進物が幕府が禁令を出すほど流行したほか,中元や歳暮は逆に近世以降の都市生活の進展によってより盛んになるなど特異な展開を示してきた。現代においても一方では前近代の虚礼,農村の陋習(ろうしゆう)といわれながらもいまだ根強く,H. ベフの調査(京都,1969‐70)によれば一世帯当り月平均8.1回の贈物をしその費用は月収の7.5%にのぼるという。ことに中元と歳暮は戦後ますます盛んとなりデパートを中心にその売上げは急増し,世界に類をみない民族的大贈答運動が繰り広げられている。
[日本]  日本には謝罪・感謝・依頼あるいは愛情のしるしとして一時的になされる贈物のほか,中元・歳暮をはじめ年始・彼岸・節供など毎年定期的に繰り返される贈答,出産・年祝・結婚・葬式といった通過儀礼の際や病気・火事・新築・引越し・旅行などの際の贈答,およびそのお返しやおすそ分けなど慣習化された贈答の機会がきわめて多い。定期的な贈答は今日の都市化した社会では中元・歳暮・年始を除くと日本古来のものは廃れ,代りにバレンタイン・デーや母の日,クリスマスなど新しいものがふえてきている。一方,戦前までの村落社会では贈答の原初的意義を伝えるとみられる定期的な贈答すなわち節日の贈答が多かった。その特徴は,贈答品に食物とくに霊魂の象徴とされる蛭が多用されること,また歳暮の新巻鮭,彼岸の牡丹蛭(ぼたもち),盆の素乏(そうめん),雛祭の菱蛭,端午の粽(ちまき),水口祭(みなくちまつり)の焼米,八朔の初穂などその節日に応じて特定の食物が決まっていることである。要するにこれらはその節日の神供であり,これを直会(なおらい)同様に人々が相痢(あいにえ)してその霊力を分割し,また一つの火で煮炊きしたものを共食して互いの結合を強化する意義があったと解釈されている。あるいは地方によっては正月の鏡蛭や端午の粽などを半分だけ自家で作ったものに取り替えて返す習慣があり,これを合火とか火を合わせるというが,逆に異なる火で作った食物を交換してより多くの霊力を得る方法であるともいえる。贈物が神供同然であったことは,水引や熨斗(のし)を添える習俗や古代に贈物を意味したマヒ(幣)に供物の意もあることからもわかる。また贈物一般をトビと呼ぶ地方もあるが,これは〈賜(た)べ〉に由来し神からの賜物を意味すると説かれており,日本人の贈答行為は古来よりの信仰に根ざしたものといえる。会食に欠席した者に食物を送り届ける〈送り膳〉や出席者にもその家族へ食物を包み持たせるならわしまたおすそ分けなどは共食の効果を広げるものであり,オウツリとかオトビ,オタメと称し贈物を入れてきた器に食物を少し取り残して返したり半紙やマッチなどを入れて返すしきたりは,御飯を少し残してお代りする習慣同様,一つの食物を移し回していただき合う共食の作法を残したものとみられる。なお食物贈与にササやナンテンの葉を添えるのは古く葉を食器として使った名残とか魔よけのためといわれている。
 一方通過儀礼や各種とり込みの際の贈答は,儀礼などが行われる家への見舞が中心となる。香奠(こうでん)と餞別(せんべつ)は金銭的援助の性格が強いが,産見舞,通夜見舞,忌中見舞,病気見舞,火事見舞,留守見舞などやはりいずれも食物が多用され,大勢の者が持ち寄った食物の力で当該者の不安な状況を支えるといった呪的な性格を帯びている。七つの年祝に子どもが近隣七軒から雑炊をもらい回る〈七所もらい〉なども同様の習俗である。ただし通過儀礼の際の贈答品は食物に限られてはおらず,妊娠祝の岩田帯,出産の産着,成人式のふんどしや腰巻,結婚祝の帯や下駄,還暦の赤い帽子と袖なしなど一連の衣類が古くから用いられたが,これは単なる祝福のしるしではなく地位や身分の変更を社会的に承認するしるしでもあったとされている。
 贈物は経済取引とは違いつねに返礼の義務を生み,社会関係の強化と一体感を創出する機能を持っている。とくに日本で現在でも贈答が重視され多用されるのは,贈答品の品目によって相手の心がわかるとさえいわれ,また〈まごころの贈物〉などと称されるように,贈答が物を媒介とした心情表現の一手段となっていることが大きい。これは日本人のコミュニケーションが非言語的側面を重視する点や言語による心情伝達が不得意な点とも関連するといわれている。このため贈与の機会に物を贈らないと〈義理を欠く〉と負い目を抱くだけでなく,相手に誠意がないと疑われる恐れもでてくる。ただで動くものは地震しかないといわれ,贈収賄が多発するのもこうした点がその土壌となっている。                    岩本 通弥
[欧米]  欧米でも誕生日祝い,婚約指輪など贈答の習慣があり,パーティ,食事に対しての返礼の社会的義務の存在も認められる。物を贈ることには相手に対する拘束力があり,〈お返し〉はそれからの離脱である。昔この力が強かったことは贈物をあらわす中世フランス語ドン don(ラテン語 donum に由来する)の対としてゲルドンgueredon という〈お返し〉に当たる単語があることにも見られる。don が gueredon を喚起することから,17,18世紀になって贈物をあらわすのにプレザン prレsent の語が用いられるようになり(英語を介して日本語のプレゼントとなっている),さらに現代ではカドー cadeau の語が用いられるようになった。cadeau は元来〈飾り文字〉の意で,食事の折に室内楽の演奏を提供することをも指していることからわかるように,〈お返し〉の拘束力の少ない〈気軽な贈物〉である。また M. モースは,ゲルマン語の Gift が贈物を示すと同時に毒の意味を含むことと,ゲルマン古伝説に不運の因となる贈物というテーマがよく見られることを指摘している。
 ヨーロッパの王侯貴族の重要な徳目は〈気前のよさ〉であって贈物には馬,武具,装身具,衣服,食品といった序列があった。最大の下賜品は封土で,めったに与えられなかった。ロマンスでは身分のある女性が騎士である恋人に片袖をほどいて贈る場面がよく見られる。贈物は社会的行為であるので集団の慣行を知って行う必要がある。日本で贈答に使われる菓子,靴下,タオルなどは欧米では避けられるが,チョコレート,糖果,ボンボンは許される。ケーキは家で作るものであり,靴下は肌着の一つと考えられている。花は無難であるが〈花言葉〉を読み込まれる可能性もあり,キクのように不吉な連想をもつ花もある。刃物を贈らないのも普遍的で,銀の食器セットにナイフは入らず,ナイフだけは別に買えるようにしてある。財布,札入れなどを贈るときは少額の現金を入れておく習慣もかなり一般的である。    松原 秀一
【贈与・贈答のシステム】
 民法の規定によれば,贈与とは当事者の一方がある財を無償で相手方に与える契約である。このかぎりでは,当事者が自由な選択に基づいて,一回的に,無償で(一方的に)贈る財が贈物であると考えられる。しかし,われわれの身近な贈物の習慣を例にとれば明らかなように,贈物は,儀礼的・慣習的な社会生活の局面では,これとはかなり異なった性格を示す。すなわち,贈物はある社会関係に付随する当然の行為として期待されており,したがって,任意というよりは半ば義務的であり,しかるべき機会のたびに繰り返して贈られるのである。またこれが,当事者間の一方的な贈与ではなく,贈物とお返しという双方向の贈答の形態をとることが多い。このような場合にも,贈物は,財の譲渡だけをとり出してみれば個人の恣意によって成り立つ自由な契約のように見えるが,その背景となる状況や期待を考慮に入れるなら,当該社会の習俗,文化によって規定された社会的制度というべきだろう。
[贈物と道徳的体系]  贈物の習慣は,古来よりの人間社会にほぼ普遍的に存在するものであるが,その具体的な形態(贈物の品目,贈物がやりとりされる社会関係,機会等)は,文化の差異に応じてきわめて多様である。しかし,どの事例も,具体的な贈与の形態を規定する細かな規則(いつ,だれが,何を,だれに,どのように)によって制御されており,これによって首尾一貫した安定的な体系をなしている場合が多い。しかも,このシステムは,経済,法,社会組織という社会の最も基本的な側面と密接に連関しているのである。実際,上記の社会にあっては,相対的にひじょうに多くの財が贈物の形でやりとりされ,贈与関係が財の流れの重要な水路になっているところから,このシステムの経済的機能は明らかである。また,贈物は半ば義務であり,これに違反した場合には,非難や制裁が課せられたり,紛争状態が生ずることが多い。つまり,贈与のシステムは,法,道徳,宗教が一体となった未分化な規範のシステムと不可分である。
[贈物の互酬的性格]  贈物のシステムが安定的であるとき,そこに含まれるどの主体(集団)に関しても,贈る関係と贈られる関係のバランスが成立していると考えられる。社会集団の間に特定のパターンに従って贈与しあう関係が成立しているとき,この関係を一般に互酬 reciprocity という。この互酬の事例を分析してみると,人々は贈った分を結局他の人々から受け取っており,その逆も真である場合が多い。このような場合,互酬は,市場的な交換と異なって,功利的な利益を人々にもたらすことはない。それならば,何故に人々は無益に贈物をかわしあうのであろうか。互酬の制度は諸個人(集団)の利害や感情の反映ではなく,むしろ逆に,その単位となる諸集団の凝集と集団間の連帯を同時に生み出すとする見解に見るべきものが多い。つまり,互酬(相互的贈答システム)の合理性は,諸個人にかかわるよりも,社会全体の有機的な統合の成否にかかわるものであるといえよう。
[ポランニーの解釈]  ここから,贈物が功利的な財の交換と区別されるべきであることは明らかである。これをふまえて経済史学の分野ではK. ポランニーが,互酬のシステムを市場における交換との対比において定式化した。互酬のシステムは,再分配 redistribution(集権国家等にみられる,社会の中心への財の集積と,中心から周縁への財の分配),および市場交換 exchange(任意の主体間の財の交換)と並ぶ社会の統合形態の一つである。また,これらの三つのシステムはおのおの固有な制度であって,互いに進化,発展の関係にはない。さらに,実際のどの社会をとっても,これらの三つのシステムが組み込みあって共存する。この3点がポランニーの基本的論点である。彼は,交易,貨幣,市場の3要素が三位一体としてあらわれる市場経済が決して普遍的なシステムでなく,むしろ互酬,再分配のそれに比して特殊なものであることを力説した。⇒市      山本 泰
[贈物と社会的感情]  人はだれでも単独ないし孤立した状態で人生を全うすることは不可能であるから,個人であれ特定の集団であれ,他との共同・連帯をたとえ無意識的にせよ願望し,かつその促進につとめるものである。他方,個人あるいは集団はみずからの社会的位置の確認や強化のために,実質的効果を求めてさまざまに行動し,またその地位を他に認識せしめようと力を尽くす。贈物はまさにこのような社会的実効ある行動の一つである。贈物とは,他者に,経済的のみならず呪的・霊的・象徴的価値や意味のあるものを贈与することであり,この結果として収受した側には,これと等価と考えられるものを返礼する義務あるいは借りが発生する。すなわち,互酬を背景とした贈与交換の現象を呈する。こうした贈与と返礼の習慣は,われわれ自身の周辺においても,虚礼であるといわれながらも都市や農村あるいは産業社会においてさえ盆・暮などの特定の年中行事に際して,あるいはまた日常生活においても根強く広範に定着しているところである。この贈答行為の背景には友情と対立,信頼と不信あるいは愛情,是認,尊敬とその反意などを内容とした社会的感情の複合体が伏在し,この行為によって人々は相互の社会的位置関係の確認や強化に導かれることになる。信頼の証としての贈物に対して,何らかのものを送って返礼することは,この信頼が正当であることを認めたしるしである。逆にこれを拒否することは,友情と交際の拒絶や不信と敵意を意味することになる。
[モースとレビ・ストロースの解釈]  このような贈物の贈与・交換の現象は,近代社会における法的根拠に支えられた商業的経済行為とは異なり,むしろ儀礼的・道徳的側面が強調された慣習ないしは制度である。宗教的・経済的・法的・道徳的・社会的諸側面が複合的に混然としていて十分な分化に達していない,いわゆる未開社会では,経済的行為と儀礼的・道徳的行為が密接に関連し合いながらも儀礼的・象徴的側面が強調されることが多い。このことは,とりわけ M. モースが《贈与論》で主張したように,近代社会とは逆に,実は儀礼的・象徴的贈与交換が社会的・経済的関係の基本的根幹を形成していることを意味している。そして,モースはこのような贈与交換の体系から,贈る義務,収受の義務,返礼の義務の三つの特質を摘出し,とりわけ返礼の義務の動因に着目したのである。この結果,義務的返礼の動因として,呪的・霊的観念レベルにおける強制力を見いだすのである。つまり,物とその所有者は呪的・霊的レベルにおいて結びついていて,収受者が返礼することによってはじめて,この結びつきが解除されることになり,これを契機に贈与物が収受者に属することとなる。この場合,かりに収受側が返礼を怠るならば,凶禍に遭うという観念が付帯していることが重要である。こうした宗教的レベルを強調したモースの見解に対して,モースの学問的系譜に列するレビ・ストロースは,人類普遍の理論の構築を目ざして交換理論の展開をすすめた。彼は象徴的コミュニケーション論を背景に連帯理論を展開するが,モースに比して,システマティックな交換による特定集団間の連帯促進をより強調する。原初的な社会集団は物品や女子の象徴的贈与交換を通じて他の集団との持続的な結合・連帯を維持し,安定させると説いた。つまり,原初的な社会における贈答システムは,まずもって食物や製品,さらに最も貴重な財のカテゴリーである女を含んだ全体的交換であると主張する。
[ポトラッチとクラ]  このいわば連帯促進システムに対して,贈与のもつ他の側面として,送り手と受け手の間に競争や対立をまねく要素のあることも重要である。ポトラッチと呼ばれる北米インディアンの贈与交換に関する事例によれば,自己の威信を高めるために名誉や面子をかけて,財貨の惜しみない競争的贈与や浪費が行われる。これらの事例は身分階層差が明確な社会で見られ,栄誉を求める者は他者に贈物をし,贈られた側はそれ以上の贈物を返礼しなければならず,一方の破産にいたるまで果てしない対抗関係が展開することになる。また,メラネシアにおいてはクラとよばれる一定領域内の島々の間で行われる儀礼的贈与交換の体系がある。海辺部と内陸部との生活物資の交易サークルに加え,価値ある儀礼的物品の循環的な交換体系である。
 このように贈与交換の現象は人類に普遍的な事実であり,自己と他との意志的交流の主要な一現象である。贈与され返礼される物品の背後にある象徴的意味あるいはその行為が内包している呪的・霊的レベルにまで考察を加えるなら,贈物という単なる物品の移動のように見える行為の背後には,物のみならず威信,名誉,功利,契約など重層的価値の移動・混交・同化を見ることができるといえよう。⇒経済人類学∥交換     大胡 欽一

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ダグラス ブラック /ブルー鉢 MDB001

ブルーの釉薬がタップリとかかった豪華な鉢です。高台の緋色と全体のブルーとのコントラストが印象的です。形はオーソドックスで使いやすいです。飾っても堂々とした存在感があります。透明感を保つため、優しく扱ってください。

(このブルーはダグラスさんの瞳の色と同じです

 
 
<手作り作品について>
益子やの商品は、一品一品手作りで制作した作品です。
同様の意匠として仕上げた場合も、大きさ、色、形、表面の風合いなど若干の違いがあります。この違いについては、手作り作品の個性ある味わいとしてご理解いただいた上でご購入ください。

 

 

パソコン・ディスプレイやプリンタの特性および、調整の状況により、色合いや風合いが実際の商品と多少異なることがございます。
 
 

 

 

商品概要
(商品ごとに若干の違いがあります)

寸法
(mm)
高さ

 54

 -

奥行き

 -

口径(外寸)

 196

重量(g)

 498

容量(ml)

 -

 

お取扱について
電子レンジ
 ○使用できます
オーブン
 ×使用できません
直火
 ×使用できません
食洗器
 △使用できますが、表面の光沢感を維持するため、他の食器との接触にご注意下さい
その他
 -

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野点 / 益子やオリジナル野点セット「野点揃」

野点

野点(のだて)とは野外で茶をたてること。また、その茶の湯。

屋外に点茶の場所を設定して,茶(薄茶)を供することを野点という。この様式についての記述は《南方(なんぼう)録》が最も詳細で,〈野ガケ(掛)〉また〈フス(燻)ベ茶ノ湯〉と表記し〈野駆〉〈狩場〉での茶会の意としている。

同書〈滅後〉の巻に,天正15年(1587)6月に九州征伐のおり博多(箱崎)に駐留した豊臣秀吉に,海浜の松原で千利休が松葉をかきよせ,これを燻(ふす)べて湯を沸かし茶を点(た)てたとあり,さらに同書には九州大善寺山,京都糺森(ただすのもり)での事例が掲げられている。

箱崎松原での利休の働きは秀吉の大いに嘉賞するところとなり,山岡宗無(茶匠住吉屋宗無。1534‐1603),津田宗及にも〈フスベ茶ノ湯〉を出すことを求めたという。しかし利休は,定法のない野掛は〈定法ナキガユヘニ定法大法アリ〉とし,周囲の景観に目を奪われるため,秘蔵の茶器を出すことをよしとして,安易な野遊びになることを戒めた。

この箱崎での着想は,その年10月1日の北野大茶湯(きたのおおちやのゆ)にも引き継がれ,1590年の秀吉の小田原遠征に利休が携行した桐人笥(旅人笥)も野点(この場合,芝点(しばだて)とも称する)に使用されたと思われる。いずれにしても利休は,野点に厳しい要求をもっていたが,やがて西鶴の《男色大鑑》に〈野掛振舞〉の用例がみられるように,貞享(1684‐88)ころになると,野遊びに飲食物を携え,喫茶もその中に取り込まれるなど,野点の内容が軽装化されたといえよう。今日においても季節や場所の選択に趣向をこらし,屋外での点茶として行われている。 

野点揃/NODATE-Soroe

野点伝統の定法を大事にするとともに、今日のアウトドアでの使用やリビングでの茶の湯にも対応する、益子や オリジナル茶道具一式を揃えました。 伝統の優美さ。 わびさびの風情。 作陶家と熟練職人による入念なつくり。 野点に必要な道具をコンパクトにパッケージング。 携帯性と衝撃保護。

ロハス(LOHAS)・もったいないライフスタイルをサポート。 でき得る限りの修理対応をさせていただきます。 野点茶碗 《くわしくは別紙 野点茶碗カタログをご覧ください》 野点茶碗カタログの中から、お好みのひとつを選択となります。

野点揃 「襴」/NODATE-Soroe 《ran》

<自然の中にありながらも雅な趣> 二種類の金襴・組紐を贅沢に使用。利休袋を現代的にアレンジ。和装からカジュアルまで幅広くお使いになれます。 細工やデザインを凝らしたオリジナルバッグRIKYU-bag 「襴」に、茶道具一式を揃えました。

野点揃 「帆」/NODATE-Soroe 《han》

<自然の中で味わう「わび・さび」> 丈夫な防水帆布二枚取り。ザックなどに収納しやすい角型形状。カジュアルからアウトドアまでお使いになれます。 持ち手に金襴をあしらい、凝ったディテールをあわせ持つオリジナルバッグRIKYU-bag 「帆」に、茶道具一式を揃えました。

アウトドアに対応する和のバッグ 【RIKYU-bag】 – Original DESIGN –

【RIKYU-bag 「襴」】 ” 二種類の京都西陣の金襴生地と、組紐を使用。 ” 伝統的な利休袋と機能性を融合させたデザイン、色柄。 ” 複層構造により茶碗や茶道具への衝撃を吸収。 ” 内側にもこだわったつくり、きめ細かい細工。熟練職人による入念な仕立て。 ” Made in JAPAN

【RIKYU-bag 「帆」】 ” 綿100%、パラフィン防水加工帆布生地を使用。 ” 自然環境に馴染む色と風合。使いやすいデザイン。 ” 金襴生地を控えめにあしらうことで茶道具らしさを。 ” 帆布二枚取りによる丈夫なつくり※2、熟練職人による入念な仕立て。※2:一部に一枚取りの部分があります。 ” Made in JAPAN

統一デザイン茶碗袋、琉球畳コースター – Original DESIGN – “

RIKYU-bag・茶碗袋・畳コースターは、同じデザインの金襴生地を使用し、こだわりのディテールをお楽しみいただけます。 ” 畳表は、琉球畳を使用し、味わい深い風合と耐久性を追及しました。 ” Made in JAPAN

高山薄茶道具 ” 国産竹による茶筌、茶杓、根付を、コンパクトにパッケージ。 ” 奈良県高山伝統工芸士制作。 ” Made in JAPAN 実用的な小棗と茶巾 ” 小棗はアウトドアで使いやすい樹脂製。抹茶がこぼれにくいように、密閉性の高い中蓋付き。石川県山中漆器製(現.加賀市)。 ” 茶巾は実用的な綿と麻の織物。 ” Made in JAPAN

贈り物として・保管にもロゴ入り専用桐箱 ” 「襴」・「帆」専用のロゴ入り桐箱つき。 心のこもった贈り物としても好適です。 ” 温度・湿度調節効果が望める桐箱収納は、防カビ・防虫にも適しています(効果は絶対的なものではありません)。 ” Made in JAPAN

ロハス(LOHAS※3)をサポート 世界に誇るライフスタイルもったいない(MOTTAINAI)。 大切にご使用になられている野点茶碗、RIKYU-bag 「襴」と「帆」、茶碗袋が破損した場合は、修理※4をさせていただきます。 ※3.Lifestyles Of Health And Sustainability:健康的な生活と同時に、地球環境や自然保護に気をつかう、持続的なライフスタイルの総称です。 ※4.破損の状況によっては修理できない場合があります。お見積り後、有償での修理をさせていただきます。

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大塚啓三郎と窯業技術支援センター

近代益子焼の陶祖 大塚啓三郎(おおつかけいざぶろう)さんを調べるうちに、現在の栃木県窯業技術支援センターとの関わりが深いことを知り、今回は啓三郎さんゆかりの地と窯業技術支援センターを中心に現地を見てまいりました。あわせて、大塚啓三郎陶祖碑のある西明寺から近い、地蔵院に建設中の陶器販売新店舗工事状況もチェックしました。

■陶祖 大塚啓三郎プロフィール

嘉永六年(1853)、ペリーが黒船で浦賀にやってきた江戸末期、大塚啓三郎は益子の根古屋(ねごや)に窯を築き、二十六歳で陶業を開始しました。資料によっては嘉永五年というものもあります。

啓三郎は文政十一年(1828)益子の隣町、栃木県芳賀郡茂木町福手で杉山次郎平(すぎやまじろべえ)の次男として生まれ、少年時代に茨城県笠間の鳳台院に住み込み、寺子屋教育を受けます。

ときの十一世大関雄山(おおぜきゆうざん)住職が笠間久野窯(くのがま)の経営に参画していたこともあり、啓三郎も窯の経営のみならず、製造方法も学んだようです。
その後、啓三郎は益子の大塚平兵衛(おおつかへいべえ)の婿養子となり農業に従事します。

福手の生家と益子の婿家と間を往来する途中、益子大津沢の土が製陶に適していることを発見しました。
この土を使い、農業のかたわら現在の町並みに面した自宅近くで陶器製造を始めました。

その後黒羽藩主大関候は、根古屋に土地を与え窯業を許可し奨励しました。

【図1 根古屋 大塚窯レイアウト】
【図2 根古屋 大塚窯出土品A】
【図3 根古屋 大塚窯出土品B】
【Googleマップ 根古屋 大塚窯付近】

 

大塚啓三郎が陶祖として仰がれているのは、単にはやく窯を築いて瀬戸焼をはじめたということだけではありません。

【写真1 西明寺 陶祖碑】 【写真2 陶祖碑文の一部】
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【Googleマップ 益子 西明寺】

 

嘉永以後、益子で瀬戸焼が逐次盛んになるにつれ、啓三郎はその隆盛を永く維持し、より安定した産業へ発展させていくべき方策について苦慮したようです。

黒羽藩に後継者育成などの意見書を提出し、幕末から明治にかけて仕法の制定を働きかけ、啓三郎の堅実な経営も評価されて、実施にうつされたということです。

これら仕法により益子は、はだか一貫の職人でも窯元になり得た魅力が、多くの職人の往来をうながしたものと言われています。

このようなことが、今でも外からの人々を受け入れ育てる風土の礎となっているのかもしれません。
■大塚啓三郎と窯業技術支援センター

大塚啓三郎さんが窯業後継者育成の礎を築かれた後、益子陶器同業組合が明治三十六年(1903)に設立され、陶工養成のため、組合立の益子陶器伝習所が設置されました。

当初は、啓三郎直系の大塚忠二さんが同組合の組長と伝習所の初代所長を兼任され、益子陶器伝習所は、根小屋の大塚忠二の製造場内に置かれました。

【写真3 旧大塚啓三郎宅窯場】
【写真4 現在の根古屋大塚窯】

 

(根古屋 大塚家の現細工場の一階は石組みのしっかりした建造物で、明治四十一年に組合立伝習所として建設されたと考えられています)

大正二年(1913)には益子町立となり、町内字城内の大塚道之助窯に移り、この伝習所は大正中期に町内観音寺近くの大塚平八窯に移転しました。

昭和十三年(1938)、益子陶器伝習所は現在の窯業技術支援センターの現在地に移転し、益子町立益子陶器試験所と改称しました。

翌年の昭和十四年(1939)には県に移管され栃木県窯業指導所となり、平成十五年(2003)に現在の栃木県産業技術センター窯業技術支援センターに改編されました。

【図4 陶器伝習所 所在変遷図】
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■現在の窯業技術支援センター

現在のセンターは、益子焼の特徴や魅力を肌で感じていただける「開かれた研究施設」として運営されています。
指導所時代も含めセンター卒業生約300名のうち約6割が益子近隣地域で作陶をされているそうです。

少し古い資料ですが、昭和四十四年~昭和六十二年の栃木県窯業指導所伝習生・研究生の出身地と最終学歴は表1の通り、地元中心ですが、東日本から西日本まで幅広い地域から受け入れています。

【表1 窯業指導所伝習生・研究生の出身地と最終学歴】

 

ここでは毎年、ロクロ成形など作陶に関する基礎的な知識・技術習得をおこなう伝習生10名と、独自のカリキュラムでの専門技術を習得する研究生数名が学んでいます。

学校給食にも使用可能な、従来の3倍の強度を有する強化陶器の開発や、高齢者や障害者向けにスプーンやフォークを使いやすくするための形状を工夫したボウルなど、時代の要求に対応するデザインや技術の研究開発をしています。

センターの展示室は、平成十六年(2004)に増築され、人間国宝の濱田庄司さん、島岡達三さんなど有名作家の作品や、センター卒業生の作品、上記の強化陶器など研究成果も展示されています。
かつて島岡達三さんは栃木県窯業指導所で技師を勤められたそうです。

この展示室にはセンター卒業生で、当店お取扱作家 石崎麗さんの制作品も展示されています。
見学される際にはセンターにお問い合わせください。

栃木県窯業技術支援センター
窯業技術支援センター
〒321-4217 栃木県芳賀郡益子町益子695
TEL.0285-72-5221
FAX.0285-72-7590
【写真5 現在の窯業技術支援センター】
【Googleマップ・窯業技術支援センター】

 
■最新店舗情報

益子地蔵院近くの大手小売業者の工事中新店舗です。

信頼できる筋の話では、オープン予定が延びて、正月明け早々ということです。現場を見ると年末年始も入るので大変そうです。オープン楽しみにしています、がんばってください。

【Googleマップ 益子 地蔵院】
【写真6 現在の地蔵院】
【写真7 工事中の新店舗】↓zoom↓

 
参考資料
・益子町史、益子町史編さん委員会
・日本のやきもの15益子、株式会社淡交社、濱田庄司、塚田泰三郎、藤川清
・日本の陶磁7益子、株式会社保育社、島岡達三
・益子焼、理工学社、小島英一

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